今朝のデボーションはルカ19章1節〜10節です。
キリストは、取税人の頭で、金持ちで、周囲の人々からは罪人であると知られていたザアカイのことを既にご存知で、その家に行き、交わりましたが、ザアカイにはキリストを受け入れる心がありました。キリストを受け入れると、ザアカイの考え方は変えられたのです。
例えば、私たちの心が害されたとき、自分で何とかなるであろうと過信していることはないでしょうか。これはプライドに他なりません。私たちの力では傷ついた心を癒し、回復させることはできないのです。
聖書が教える赦しの一つであるギリシャ語のaphiémiは、許可する、苦しむなどの意味が含まれます。つまり、酷い事をされても、それに否定的に反応しないということです。酷い事が無かったかのように愛し続けるのです。キリストが十字架に架けられたときに、天の御父様に赦すように祈られましたが、この箇所の赦しもaphiémiが用いられています。(参照 ルカ23章34節)
必ずしも自分に対してではなくても、神様に対して罪を犯している場合にも赦すことをキリストは教えられています。そして、何よりも自分に対して一日7回罪を犯し、悔い改めるならば、赦すように教えられています。また、別の箇所では、490回赦すように教えられています。(参照 マタイ18章21節~22節)
私たちの人間関係で気分を害することはほぼ日常的であるかもしれません。しかし、許可して、苦しむ選択をしましょう。これは言わば、手放し、自由になる選択ですから、御恵みが増し加えられます。キリストが十字架上で赦され、苦しまれた後に、復活されたように、苦しみを通過すれば、自由と御恵みが満ち溢れるのです
今日、自力では自分の抱える問題が解決されないことを素直に受け入れましょう。謙り、キリストを受け入れ、新しい、満ち溢れるほどに豊かな人生を歩み通しましょう。
神様の豊かな祝福がありますように!
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