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執筆者の写真Tokyo Bay Bible Fellowship

レビ記13章29節~37節 キリストの様に歩む恵み



今朝のデボーションはレビ記13章29節〜37節です。


私たちはキリストの打ち傷により癒され、(参照 イザヤ53章5節)神の義であるのです。(参照 第二コリント5章21節)つまり、汚れていないのです。何という素晴らしい御恵みでしょうか。


私たちがこの御恵みに安らぐことを妨げていることは何でしょうか。私たちの考え方が神様の御心と合致していないときに、平安と安らぎが失われます。この考え方は、無意識の内に、習慣的に、繰り返し行われている可能性が高く、解決のために、神様と深い関係を持ち、御言葉を求め続け、導いていただくことが大切です。私は、起床した直後、何かに取り組み集中しようとしているとき、全てから解放され、心理的な休憩を取ろうとしているとき、また、肉体的にも疲れているときに、安息に入ることができず、イライラすることがあります。しかし、御言葉が、真理が私たちを自由にするのです。(参照 ヨハネ8章32節)私たちが神様の道に降伏し、明け渡し、歩む選択をするときです。(参照 マタイ6章10節)


私は、個人的に、下記の状況に直面したとき、平安と安らぎが失われます。しかし、御言葉を通して、御言葉を告白し、神様の道を選択し続けることを通して、素晴らしい自由と平安を体験し続けています。


  • 神様に祈るが、聞かれているのかと疑問に思い、何度も繰り返し、祈るとき


神様は私たちの祈りを聞かれています。神様の御心と祈りが合うとき、その祈りは聞かれているのです。(参照 第一ヨハネ5章14節)

  • 自分が思うように、ビジョンを見ることができないとき


私は、10代のころ、パフォーマンスを向上させるために、イメージトレーニングを頻繁に行いましたが、中々上手く行かなかったことを憶えています。しかし、ヴィジョンは、イメージは神様が私たちに、内側から与えて下さるのです。描くために、頑張る必要はないのです。(参照 使徒行伝2章17節)


  • 御声を聞けているのかが、分からないとき


どのようにして神様が語られるかをあれこれ考える必要はないのです。平安が与えられているかを考え込み、自分を責める必要もないのです。ただただ、神様が私たちに語られ、私たちが聞くことができることを信じ、期待しましょう。(参照 ヨハネ10章27節)


  • 神様が喜ばれることをしたいが、その思いが強いが故に、慎重になり過ぎるとき


信徒たちの賜物は聖霊様が与えられ、その実として平安を体験できることです。平安を常時体験できるのが御恵みであり、通常です。つまり、平安を失ったときが赤信号サインで、一旦、立ち止まることが大切です。(参照 ガラテヤ5章22節)

  • 完璧な選択をしようとするが、それ故に、いつまで経っても、前進することができないとき

キリストの御顔と向き合うときまで、信徒たちは成長し続けるのです。つまり、私たちが、完璧に次のステップを全うできるかではなく、成長し続けることに焦点を合わせることが大切です。(参照 ピリピ1章6節)


  • 自分の心、メンタルにはそもそも問題があると無意識の内に考え、安らげないとき

私は幼少期のころから様々な経験を通して、メンタルがかなりやられていたと思います。つまり、そもそも自分のメンタルが可笑しいというのが私の考えでした。しかし、真実は異なります。私たちはキリストのような心、考え、魂が与えられているのです。つまり、メンタルは可笑しいのではなく、キリストのように正しく、正常であるのです。(参照 第一コリント2章16節)


  • あらゆる酷いことをされた、嫌な人のことが脳裏を過り、集中できないとき


赦しの意味である許可し、苦しむ選択をする、つまり、私たちが酷いことをされた事実を許し、苦しむ選択をするとき、そのことに拘ることを放棄し、自由を体験できます。(参照 マルコ11章25節)


  • 休もうとすると酷い事をされた、嫌な人の事が思い浮かぶとき


良い所を見て、考え、焦点を合わせるだけではなく、神様が導かれるならば、一日を通して考え続ける覚悟が、私たちに自由を与えます。(参照 ピリピ4章8節)自分の道は放棄するのです。


  • たまには良いだろうと考え、食生活を自制せずに、食べたい物を食べようとするとき


悪霊が私たちの心、強いては生活に入る隙を与えてはなりません。普段の生活から離れ、休憩の時間に入るときも、聖霊様の御導きを信じ、期待し、従い続けましょう。そこに自由と平安があるのです。(参照 ガラテヤ5章22節)


  • 自分がリーダーであるから、自動的に他の人は自分に従うべきであると考え、祈らずに、御言葉で、人々をコントロールしようとするとき


私は長い間、リーダーシップを求められたとき、自動的に、権威に従う御言葉を持ち出して、従うように求めました。しかし、同時に平安も無く、自分のポジションを失う不安と焦りだけでした。愛は自分の権利を手放します。(参照 第一コリント13章5節)同じチームメンバーの異なる意見、考え方を大切にして、一歩一歩、聖霊様に導かれる選択をしたとき、心に平安が与えられました。


  • 周囲の人々を信頼できないとき


人間関係で酷いことをされた経験が数多くあると、人間不信に陥りますが、信仰により、人々を信頼する愛を選択すると、平安が与えられました。(参照 第一コリント13章7節)


  • 自分の思うように周囲の人々が動かず、イライラしているとき


私たちが人々に自分の基準で物事を進めるように期待し、コントロールしようとするとき、私たちは平安を失います。私たちを癒すのは人々の言動ではなく、キリストです。むしろ、私たちはどのようにして、人々に仕えることができるかを考えましょう。(参照 マタイ20章28節、ローマ12章21節)人々の最善を信じ、信頼し、愛することを通して、不信感に勝利し、仕えることもできます。


  • 電気、ガスなどを消して外出したかを不安に感じて、イライラするとき


私たちがこのようにして過度な不安を感じたとき、自分にはキリストの心が与えられていることを告白します。(参照 第一コリント2章16節)私の本質的な問題は、電気やガスなどが付けっ放しで起こりうる問題ではなく、過度な不安を感じている自分の心を信頼していないことです。愛は自分を含め、全てを信頼します。


  • 自分が思うように物事を進め、自分が納得することができないとき


私たちがこの地上で達成しようとしていることは、私たちのこの地上での生涯の間で達成されるとは限りません。むしろ、次の世代へと引き継がれるほどの大きな夢が神様の夢やヴィジョンです。キリストの世界宣教のヴィジョンは、宣言された2000年後も継続されています。十二使徒として選ばれたユダの裏切りからも自由であったキリストは、その出来事をも益とされたのです。(参照 ルカ6章16節)


  • あまりにも酷い体験をしているので、この世の中での様々な問題は避けて通りたいが、避けることができないとき

私たちが非現実的な期待をするとき平安は奪われます。この地上での生活では問題があることを受け入れることが、むしろ、平安を受け取る知恵です。(参照 ヨハネ16章33節、ヤコブ1章2節)


私の体験から上記の知恵をそれぞれの問題に直面したときに適用できるようにシェアさせていただきました。一人一人特別な神様の御計画があります、私の信仰の旅はは皆さまとは異なりますが、少しでも参考になればと思いました。


神様の豊かな祝福がありますように!


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