今朝のデボーションはレビ記21章10節〜15節です。
油注がれ、聖別された大祭司が、神様の道を歩み続けるように教えています。油注がれるとは、具体的にはどのような意味でしょうか。
聖書で教えられている油は、潰されて、生成される物です。潰された油が、私たちに注がれるということは、私たち自身が潰されているということです。私たち自身の自我が潰され、独善的な考えや心が崩壊し、キリストが私たちを通して、益々豊かに現される信仰生活を歩むことを神様は願われています。私たち自身が潰されるとは、具体的には、どのような意味でしょうか。
試練が私たちを潰します。つまり、プレッシャーが私たちを潰します。しかし、この試練を通して、私たちは、動じないで、信仰生活を歩み通すことができるようになるのです。(参照 ヤコブ1章2節~4節)私たちが動じないで歩むことができるようになるということは、私たちは試練を経験し続けるということです。
どのような環境に置かれていても、キリストを第一にして、御言葉を信じ、行動へと移すのは、油注がれた信徒の信仰生活です。私たちが経験するプレッシャーが高まれば、高まるほど、益々油が生み出され、油が注がれ、神様が用いられる器として、キリストが益々あらわされるのです。油は増えますから、油注ぎも、増し加えられるのです。
今日、私たちが潰されるのを避け、逃げている試練は無いでしょうか。私たちが試練に向き合い、勝利する選択をするとき、油が益々注がれるのです。
神様の豊かな祝福がありますように!
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