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執筆者の写真Tokyo Bay Bible Fellowship

レビ記7章37節~38節 キリストの様に歩む恵み



今朝のデボーションはレビ記7章37節〜38節です。


私たちは今、約束の地に置かれているでしょうか。もしくは、荒野に置かれているのでしょうか。キリストも荒野へと聖霊様に導かれました(参照 マタイ4章1節)から、私たちも荒野へと導かれるでしょう。荒野では良い実を結ぶということよりも、人格形成、次のステップへの準備が主な目的です。人格が成長し、次の準備をすることが良い実とするならば、荒野でも実を結び続けることができます。今朝の箇所でも、荒野において、捧げものをする状況を見ることができます。


私たちはキリストを通して、神の義です。この御恵みは、永遠に与えられている賜物です。(参照 第二コリント5章21節)私たちが神の義であるという真実を知らず、信ぜずに、そもそも、自分は駄目で、価値が無く、義人になるために頑張らなくてはいけないというのは悪魔の偽りです。私たちが神様の傑作品であり、(参照 エペソ2章10節)世の光であり、(参照 マタイ5章14節)恐ろしいほどに、素晴らしく創造されていること(参照 詩篇139篇14節)を信じ、告白し続けましょう。一方で、私たちはこの真実の理解に苦しむことがあるかもしれませんが、信じ続けることが大切です。(参照 箴言3章5節)そして、良い実を結び続けましょう。(参照 ヨハネ15章5節)安らぎましょう。


アダムとエバは自分は神様の様に創造されている(参照 創世記1章27節)にも関わらず、神様の様になろうとしました。(参照 創世記3章5節)この世の人類の罪の問題の根底をここで見ることができます。つまり、自分はそもそも駄目な存在であると誤解しているのです。私の場合はこの根底の問題を知るまでに数々の自分に対する偽りを処理する必要がありました。植物の根を見付けるために、単にシャベルで土を掘り起こすのではなく、コンクリートを突貫工事で破壊してから、植物の根を見つけ出すような歩みでした。それほど多くの心の、魂の問題を抱えていたのでしょう。私が神の義であるという真実を体験するまでには、神様が与えて下さった権威、(参照 ルカ10章19節)赦し(参照 ローマ6章10節)など様々な真実を知り、信じ、その都度、悪に勝利し、その下にある根を見付け、御言葉で勝利するという、長い年月を要する信仰の旅でした。


麦の種を蒔き、刈り取ることを私たちは願いますが、無意識の内に毒麦の種を蒔いている可能性もあります。但し、キリストは毒麦の収穫を刈り取るように語られました。根から引き抜けば、麦の収穫までも邪魔する可能性があるからです。つまり、私たちは収穫を通じて、毒麦の存在を知ることができます。そして、根から毒麦を引き抜くことができるのです。毒麦の種がこぼれ落ちて、蒔かれないように、できる限り早く引き抜くのです。(参照 マタイ13章24節~30節)放っておけば、繰り返し、毒麦を収穫することになります。


今日、私たちが収穫する毒麦は何でしょうか。直ぐ根から引き抜き、処分することが大切です。但し、その根の部分の手前で、様々な問題が積み重なっている可能性もあります。その問題を一つずつ処理していきましょう。根が見えれば、完全な自由は近いです。諦めずに前進し続けましょう。そして、荒野から約束の地へと移行しましょう。


神様の豊かな祝福がありますように!


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