今朝のデボーションはレビ記9章22節〜24節です。
先ず、神様が私たちを愛されました。神様が先ず、私たち人間を含め、天地万物を創造されました。今朝の箇所を見ても、神様が捧げものを受け取る前に、神様の御栄光が現わされたのを知ることができます。神様の愛が先ずあったのです。
神様の愛はどのようにして知ることができるでしょうか。その一つの方法は御言葉を通してです。感情、哲学、考え方ではなく、真理が私たちを自由にします。(参照 ヨハネ8章32節)つまり、違和感を感じたりしても、真理を通して、自由に加えて、キリストから来る平安を体験できるのです。(参照 コロサイ3章15節)
不当な批判を受けたとしても、私たちの気分が害されたとしても、敢えて、それを許可して、苦しむ選択が赦しであり、私たちは自由を体験できるのです。(参照 マルコ11章25節)苦しむ選択をすることは、その件に関して、拘りを持ち、何とかしようという選択を放棄することです。
また、私たちが人々と関わったり、スポーツのチームを応援する動機は何でしょうか。人や物を利用して、私たちの心を癒し、空しさを埋めるためでしょうか。癒しはキリストの十字架での罪の贖いを通して、受け取ることができます。(参照 イザヤ53章5節)私たちはむしろ、人々などを通して癒しを体験できずに、怒りをおぼえたとき、悪魔から来る苦い感情に対して、人々に仕えることを通して、勝利する選択をすることができるのです。悪を善で克服するということです。(参照 ローマ12章21節)
私たちがこれらの神様が喜ばれる選択をするとき、違和感をおぼえることでしょう。しかし、この選択をしないとき、体験できるのは一時的な快感や憂鬱な感情でしょう。真理を選択したとき、心の内側で自由を体験し、その自由や平安が、じわじわと私たちの考え、感情、体にも影響を及ぼすようになります。私たちがこの選択を繰り返しているうちに、私たちは気付かない内に、次のレベルの霊的な成熟へ到達し、新たな挑戦に直面するのです。神様の愛を益々体験できるのです。
今日、神様の愛を先ず体験する選択をしましょう。その愛は御言葉を通して、体験できる自由と平安です。その愛で私たちが満たされますように。(参照 エペソ3章19節)
神様の豊かな祝福がありますように!
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