今朝のデボーションはローマの信徒達への手紙14章5節~9節です。
今朝のこの箇所でも、信徒達の間で、許容されている食べ物等や、ある特定の日々を重要視する文化的な風習等により、お互いを裁くのではなく、私達が最も大切にすべき事は心の動機である事が書かれています。
私達は様々な環境で育ち、文化的な風習を学び、社会的な環境で育ちます。従って、使う言葉、慣れ親しんだもの、服装、仕事、経済的な状況等様々です。私達はこのような事に焦点を合わせていると、偏見を以て、人々に接してしまう事もあるでしょう。しかし、神様が裁かれるのは、心の動機であるのです。(参照 へブル4章12節)ですから、私達は人々の言動等で決め付けて、裁く事は出来ないのです。心の動機を知る事が出来ないからです。少なくても、先ず、その人々の動機を確認する事が大切でしょう。
心の動機が、主に焦点を合わせているかが大切なポイントであるのです。主のために生き、主のために死ぬのです。私達は主のものであるのです。それでは、如何にして、心の動機が主に向かっているかを知る事が出来ますでしょうか。私達が愛するのは、神様が先ず、私達を愛して下さっているからである事を信じ、行動に移しているかです。(参照 第一ヨハネ4章19節)
第一に、神様に愛されている事を知り、素直に受け取り、信じる事です。キリストが十字架上で人類の罪のために死なれた時に、信徒達は、全ての必要を、癒しを、完全に、満ち溢れる程に、与えられ、栄えも与えられているのです。(参照 イザヤ53章5節)これが真実です。救いのギリシャ語であるsozoの含む意味として、癒し、繁栄が含まれますから、癒しが、繁栄が既に与えられている事も真実です。(参照 エペソ2章8節)神様の御人格を見ても、それが明確です。神様は与えられる御方です。ヘブライ語で、Jehovah Jirehとも呼ばれます。(参照 創世記22章14節)神様は人々を愛し、与える事を教えられていますから、(参照 使徒行伝20章35節)神様が自分の必要のみを与えられる御方であるという解釈は正しくはありません。神様は必要以上を、満ち溢れる程に与えられるのです。(参照 第二コリント9章8節)神様は癒される御方です。Jehovah Raphaとも呼ばれます。(参照 詩編30篇2節)この全能の神様が、El-Shaddaiとも呼ばれる神様が、(参照 創世記17章1節)私達の内側から、私達を通して豊かに働かれようとしているのです。(参照 エペソ3章20節)まさに、Jehovah Shalomと呼ばれる御方です。(参照 士師記6章24節)
第二に、神様を、人々を愛する事です。愛はギリシャ語でagapēですが、この語源はagapaóで、動詞です。つまり、愛そのものの本質は、愛する行動であるのです。私達は神様が愛されるように、満ち溢れる程に、豊かに人々を愛していますでしょうか。教会の、人々の癒しとなり、経済的な祝福となっていますでしょうか。神様は私達が、信徒達が、お互いに豊かに与える事を御期待されています。
今日も、先ず、何よりも、心の動機を大切にして、歩み続けましょう。
神様の豊かな祝福がありますように!
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