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  • 執筆者の写真Tokyo Bay Bible Fellowship

エペソ5章1節~2節 キリストの様に歩む恵み



今朝のデボーションはエペソ5章1節〜2節です。


神様に倣い、キリストの様に、愛により、人々のために自己犠牲を払うように教えられています。


私たちが知るキリストはどのような御方でしょうか。私たちがキリストを知れば、知るほど、神様のように、キリストの様に変えられ、その御人格が私たちを通して現わされます。


それでは、私たちが人々のために自己犠牲を払うことを阻むものは何でしょうか。その反対の独善的な姿勢が多いでしょうが、この姿勢は多くの場合、人々から酷い事をされ、逆に自分を守るようになり、自己犠牲とは程遠い、状況に押し込まれるのでしょう。


私たちは酷い事をされれば、人々を信じる事ができなくなり、愛し、信じる事ができなくなります。しかし、聖書は、愛を全てを信じると書かれています。(参照 第一コリント13章7節)私たちが酷い事をされたと感じても、その中でその人々の最善を探し求め、信じる事を通して、私たちは愛し、私たち自身も、その傷が癒されます。(参照 第一ペテロ2章24節)例えば、私たちが解雇されたり、グループから外されたりしたとき、私たちは酷い事をされたと感じるでしょうが、解雇したり、外した人々は、その役割を全うするために解雇し、外した、と考える選択肢もあります。また、メールを送ったのに、いつまでも返信が無いと、私たちは無視されたと感じ、イライラする事でしょう。しかし、その人が、私たちの最善を思い、私たちが気付かない所で、色々と試行錯誤していたら、どのように感じますでしょうか。私たちの心を守る選択はどちらでしょうか。(参照 箴言4章23節)


但し、純粋に酷い事をされる事もあるでしょう。しかし、私たちがその感情を持ち続けるならば、私たちの心は蝕まれ、私たち自身も酷い状況に追い込まれ、私たち自身も人々を傷つけるようになります。(参照 ルカ7章47節)私たちは、このような人々を赦すことができない悪の仕業を、根底から振り払うことができます。そして、満ち溢れるほどに豊かな信仰生活を歩み続けることができるのです。(参照 使徒行伝28章5節)


今日も私たちが自己犠牲を払う姿勢を妨げる考え方や悪習慣を神様に示していただき、満ち溢れるほどに豊かな信仰生活を歩み続けましょう。そして、私たちは自然に、超自然的に、自己犠牲を払い、キリストのように人々を愛する事ができるようになるのです。


神様の豊かな祝福がありますように!


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