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  • 執筆者の写真Tokyo Bay Bible Fellowship

ルカ4章38節~39節 キリストの様に歩む恵み



今朝のデボーションはルカ4章38節〜39節です。


キリストが引き続き、人々を癒されることを見ることができます。なぜ、私たちには癒しが必要なのでしょうか。私たちが心も体も癒されたとき、神様が私たちに与えられた満ち溢れるほどに豊かな人生を歩み通すことができるからです。(参照 ヨハネ10章10節、フィレモン1章6節)


私たちが癒されることを邪魔するのはプライドです。特に気を付けなくてはいけないのが、誠実に信仰生活を送っているから大丈夫であると自負しているときです。このような姿勢は私たちが神様の御声を聞き、従い、御恵みを体験することを妨害します。私たちがメッセージを聞いたとき、「そのようなことは何度も聞いているから大丈夫なので、関心が無いです。」という態度をとるとき、私たちがそのメッセージに潜んでいる御恵みを見逃してしまうことにもなりかねません。(参照 ヤコブ4章6節~7節)神様が私たちに対して示されようとしている解決策は難しいものではなく、極めてシンプルであるのです。


酷い事をされて、その人々に対しての否定的な感情が抜けきれないと、私たちの信仰生活にも悪影響を与えます。祈りが聞かれなくなり、奇跡を体験できなくなります。(参照 マルコ11章23節~25節)人々を赦すとは具体的にはどのようなことなのでしょうか。ギリシャ語ではcharizomaiと記され、好意を示すという意味が含まれています。このcharizomaiはcharisという御恵みをあらわす言葉から来ています。酷い事をされたら、ただ単に流して、忘れるのではなく、その人たちに対して好意を示すことが求められるのです。つまり、私たちはその人たちの最善を信じ、(参照 第一コリント13章4節~8節)感謝の意を示しているでしょうか。(参照 第一テサロニケ5章18節)私個人的にはこの御言葉により、心の根底から癒し、自由と解放を体験しました。(参照 ヨハネ8章32節)


私たちはこの世の中の様々なプレッシャーの中で生活をしていますが、自らを必要以上に追い込んでいることはないでしょうか。仮に私たちがそのプレッシャーに押しつぶされたとしたらどうなりますでしょうか。私たちはキリストの復活の御恵みを体験できます。(参照  ローマ6章4節)つまり、私たちが押しつぶされるのを恐れ、必要以上に自分の周りにガードを立てていないでしょうか。このガードを立てる理由は、人々から受けた傷である事もあるでしょう。根底には人々に評価されず、批判され、人々に対して否定的な感情を持つように至ったことが、自分を必要以上に追い込み、ガードを立てる原因である可能性があります。私たちが人々に好意を示すことが癒しへとつながるのです。


今日、私たちが見過ごしていた心の癒しを求めましょう。私たちが気になるけれども、あえて取り組まなかった点は何でしょうか。私たちの心が癒され、栄えるとき、私たちの健康を含め、全てが栄えるのです。(参照 第三ヨハネ1章2節)


神様の豊かな祝福がありますように!


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